生きる意味がないと感じるのは何故か?「人間は自由の刑に処せられている」

こんにちは。スギムーです。(@sugimuratakashi

生きる意味とは何でしょう?

フランスの哲学者ジャン=ポール・サルトルはこう言いました。

「人間は自由の刑に処せられている」

例えば、人間が生み出したモノは、目的を持ってそこに誕生します。

火をつけるためにライターが生まれ
部屋を涼しくするためにエアコンが生まれ
移動手段として車が生まれ

そうした道具は、意味を持ってそこに誕生します。
彼らは意志を持たないモノです。

例えば、生物や植物はどうでしょう?

虫が植物を食べ、
その虫を鳥が食べ、という生態系があり
食物連鎖がある。

太陽と水によって植物が二酸化炭素を酸素に変え
その酸素を生物が吸って呼吸をする。

何れにしてもこの地球にはその存在に意味のないものはありません。
何かしらの機能がある。

さて、しかし人間はどうでしょうか?

■生きる意味がないと感じる理由

人間には最初から生きる意味という目的(本質)があるのでしょうか?
ないのでしょうか?

サルトルの「実存主義」は
「本質主義」の反対に位置するものです。

本質主義というのは、
そのものに本質がある前提で考えられたものです。

つまり、
「人間の本質とはこうである」
「人間はこのために生きている」

という確固たるものがあると考えるのが本質主義。
神がいるのであれば、人間の誕生の目的を決めたからこそ人間が誕生したはず、という考え方。

しかし、実存主義では
「私はこう生きる」
と決めたことによって、その人の本質が生まれる。

と考えるということです。

だからサルトルは「実存は本質に先立つ」
と言っていて、
つまりは、自分が実存するから本質が生まれるのだ、
という主張です。

人間が画一的な目的を持たない生き物である以上
自由である以上、

その人がどう生きるかを決めない限り、
その人の本質自体がない
ということです。

■主体性こそ生きる意味を作る

人間がどう生きるかはその人次第と考えれば

つまり、人間は「自由」です。

自由とはとても楽なようにも思えます。
しかし、全てを自分で決め、
自分で判断し、行動をすること
です。

そうなれば、自分の人生は誰のせいにもできない。

全ては自己責任の世界。

それが自由です。

人間が自由ということは、
人生で起きることは100%自己責任ということ。

だからこそサルトルはこう言ったわけです。

「人間は自由の刑に処せられている」

と。

自由というのは、自分で生きる意味をみつけ
全てを自己責任で決定していくことだから
しんどいよね、ということ。

起業したりフリーになってみると分かりますが
全責任が自分のせいですし
売り上げも給料も自分次第です。

これをチャンスと見るか、リスクとみるか
自由というのは責任が伴うわけです。

■生きる意味がわからない時の哲学

私達はいわば二回この世に生まれる。
一回目は存在するために、二回目は生きるために

フランスの哲学者ルソーの言葉です。

私たちは今、生きています。
確かにそうでしょう。

呼吸をしている。

体が動く。

考えることができる。

こうして文字を書いたり本を読んだりもできる。

確かに、生きています。

でも、その「生」は選択したものかどうかは
人によります。

人は死を選ぶことはできても、
生を選ぶことはできないから。

生まれたというだけで、生きているのです。

それは生物学的に「存在」を意味しています。

死を選ばなければ生を選んでいるわけではないのです。

自分は生きるのだ。

と、自分が自分の本質を持った時にこそ
人は、生きることができるわけです。

■生きる意味を失った時

「生きる意味を失った」という人がいます。

「失われるもの」ということは、自分の外側にあるものです。

例えば、恋人、やりたいこと、夢、なりたい職業、病気、他人からの評価

そうした、様々な希望とも言える望みが絶たれた時、
人は生きる意味を失うという絶望感に苛まれます。

しかし、それは自分では決めることのできない外部要因です。

自分以外の、外部要因に自分の生きる意味をおいてはいけません。
自分の人生において、自分が主体でなければ、主体的に生きることができないのです。

サッカー選手になれなかったら、あなたはあなたではないのですか?
サッカー選手になれるかどうかを決めるのはあなたではないはずです。

大手企業には入れなかったからといって、あなたはあなたではなくなるのですか?
その採用を決めるのは会社の都合です。

恋人に振られたら、あなたではなくなりますか?

親に認められなければ、あなたはあなたではないのですか?

 

あなたは決して、価値がないなんてことはない。

生きる意味を、自分が主体ではない外部においてしまっただけなんです。

どんな状況になっても、あなたはやり直すことができます。

■人間は更に生きることができる

ニーチェは

『脱皮できない蛇は滅びる。意見を脱皮してゆくことを妨げられた精神も同じことである』

と言ってます。

「更生」という言葉があります。

更に生きると書いて更生です。

別に「不良を更生する」という意味ではありません。

更生とはこういう意味です。

ーーー
1.生き返ること。よみがえること。蘇生 (そせい) 。
2 精神的、社会的に、また物質的に立ち直ること。好ましくない生活態度が改まること。
ーーー

人間は誰でも、
いつでも、
生まれ変わることができるのです。

脱皮をすることができる。

今までの考え方をやめること
今まで自分を大切にしていなかったことをやめること
今まで勘違いしていた世界を見つめ直すこと
自分についている嘘をやめること

脱皮をすればいいのです。

誰でも、更に生きること、生き直すことはできる。

■生きる意味は幸せになること

人間の生きる意味に本質を求めれば、それは誰もが幸せになることでしかありません。

幸せになるために何をするか?と言う生き方を決めるのは自分です。

自分で生きると決めた時から、本当の人生が始まるのです。

それが「自立すること」なんです。

それが主体性なんです。

生き方は、自由に決めていいんです。

親や社会が言ったことじゃなくていい。
自分で自分の生き方を決めていい。

自由に巻き込まれるか?
自由を利用するか?

僕らにある選択はこれなんです。

そして、
ただ存在するだけの存在から
自分で自分の本質を作り、
今までの慣習を捨て、更に生きることを選択するのか?

それとも、今にとどまり、
「自由の刑」を嘆き、絶望し続けるのか?

はたまた、人間の生きる目的を探す旅に出続け、
目的を与えてくれる教祖に迎合し続けるのか?

それもまた自由です。

 

もう何かに責任を押し付けて、
自分の生きる意味を放棄しないでください。

あなたは掛け替えのない存在であり、
いつでも更に生きるということができるんだから。

 

さて、では人間の生きる意味の本質に当たる
「本当の幸せ」とは一体なんなのでしょうか?

それはまた別の機会にお話しします。